帰る海はなし

証明士の日々

持ち家賃貸論争:英国編

ケンブリッジに住んでIT企業で働いていた2年半、教育水準の高い人々や、羽振りの良さそうな情報・通信関連の人たちと話す機会が多かった。不思議なことに、彼らはほぼ全員が持ち家派だった。現在賃貸に住んでいる人でさえ、将来的には家を買いたいと考えていた。実際、僕の滞在中に住宅ローンを組んで家を購入した知人も少なくなかった。唯一の例外は帰国予定のある日本人達で、賃貸派の人も多かったように思う。

洋の東西を問わず、持ち家派の主張はいつも同じ。「家賃は払い損。何も残らない。住宅ローンを払えば家が手に入る」と。でも、それを聞きながらも、僕はずっと賃貸派でいた。もちろん、経済的・時間的な余裕と英国の法制度に対する深い理解があれば家を買うことも考えたかもしれないが、正直その余裕はなかったし、賃貸生活には大きな後悔はなかった。

実際、僕はケンブリッジの屋根裏部屋に月22万円以上の家賃を支払っていたけれど、それでも賃貸のほうが僕にとっては楽だった。引越しが簡単で、大家さんは協力的で、転職にも柔軟に対応できた。何より、住宅ローンを抱えずに済む無借金生活は、気持ち的にとても楽だ。さらに、住宅市場や税制度について深く調べたり、迷惑な隣人により不動産価値が下がる心配をする必要もない。賃貸の生活は、経済的な負担や心配ごとを減らす点で非常に魅力的だった。

ただ、考えてみると、僕は住宅ローンの税優遇や、英国の安定した住宅市場について十分に検討していなかったことは否めない。実際、英国政府は「Lower employment, lower earnings and lower home ownership rates will all limit the ability to accumulate wealth.(雇用率、収入、持ち家率の低さは資産形成の能力を制限する)」と明確に述べている。この政府の警告に対して、僕の判断は矛盾している。

僕は特別な理由がない限り、福祉先進国家の指示に従う方針で生きている。民主制に基づく先進国には国民や住民の安寧を目指す強い理由があるので、そういう国を代表する専門家の方が素人の自分よりも的確な判断を出来る蓋然性が高いと推定している。今の英国は福祉先進国家というには少し福祉制度に綻びが出ているけれど、それでも民主制に基づく先進国なので、僕は英国政府を割と信頼している。

そこでふと思った。果たして、僕は合理的な判断をしていたのだろうか?自分の都合の良い理屈を作り上げて、自分を納得させていただけなのか。それとも、英国政府が推奨する持ち家は、個人の経済合理性以上に、住宅市場全体を安定させるための政策的意図があるのかもしれない。僕が見逃していたこうした背景をもっと深掘りしておくべきだったのかもしれない。

結局、持ち家か賃貸かの論争に対して、自分なりに十分納得のいく結論を出すことはできなかった。確かに、住宅市場の高騰によって得られたかもしれない資産形成の機会を逃した部分はあるかもしれない。しかし、それでも僕が貧しくなったわけではなく、賃貸生活自体に後悔もしていない。まぁ、それでいいんじゃないか、と今でも思っている。

この英国における持ち家・賃貸論争は、僕にとって「結局どうなのか良く分からないままに終わる謎事象」の一つとなり、静かに過ぎ去っていった。

そういえば、唯一賃貸生活に理解を示してくれたのは、毎月僕の家賃でしっかり利益を得ていた、あの親切な大家さんだけだった。🧐